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 錨の話(1)

 七つボタンは桜に錨、と言う歌があるが、錨は海軍、あるいは船のシンボルであるとも言えよう。 にもかかわらず、錨の実態を知っている者は少なく、 投揚錨作業を目にしたことのある者はさらに少ないことであろう。 この原因は日本が未だに海洋国家となれず、 海や船に無関心な国民で占められた島国であることに主因があるだろう。 政府が「海の日」なるものを定めても、 それは祝日を増やして人気の回復を図ろうとするだけのものに過ぎず、 その「海」にしても多くの国民にとっては「海辺」とことであり、 「海洋」にまで思いを巡らせる国民はどれくらいいるだろうか。
 最初から話が横道にそれてしまったが、 知られているようで知られていない錨の話をいくつか紹介する。
 
 錨には「碇」と言う漢字が当てられることもあるが、 これは古代には船を繋ぎ止めるための道具として石が使われていたためであろう。 手漕ぎの小さな舟であれば風や流れによる影響も小さいので、 石に縄を付けてほ放り込んでおけばその重さだけで舟の移動を防ぐことができる。 勿論「碇」を揚げる時は人力で直接引っ張っていたことであろうから、 碇の重さにも、舟を繋ぎ止める力にも限界がある。
 舟が大きくなるにつれて必要とされる碇の重さも増すこととなり、 やがては人力で碇を揚げることは困難になったであろうと予想される。 そこで単に錘を沈めるだけでなく、 鋤のように何かを海底に食い込ませれば大きな抵抗となり、 重量の割りに舟を繋ぎ止める力は大きなものとなる。 ただし鋤のように刃が一方だけでは海底を滑ってしまうこともあるので、 確実に刃が食い込むように四爪錨が考案されたものと思われる。
 ここで興味深いのは「錨」と言う漢字である。 石で出来ている「碇」に変わって金属製の錨が出現したのだから、 その文字が石偏から金偏に変わったとしても不思議ではない。 しかし石偏の「碇」から金偏で同じ旁の「錠」にではなく、 旁に「苗」を用いた「錨」と言う文字になっていることに注目すべきである。 あるいは既に「錠」の字が他の意味で使われていたためかもしれないが、 四爪錨が苗のように海底に差し込まれていくことから定められたのかもしれない。 錨を揚げる場合には「抜錨」と言う言葉も用いられるが、 これも海底に刺さった錨の爪を抜くことに由来しているものと思われる。
 
錨  四爪錨は現在でも小型船舶に用いられているが、 大型艦船ではほぼ例外なくストックレスアンカーが用いられている。 ストックレスアンカーとはストックの無いアンカーのことであるから、 当然ストックのあるアンカーもあった訳で、右の図はそのストックアンカーの一例である。
 ストックアンカーの爪は2つで、錨の上部には爪と直行するようにストックが設けられている。 爪が海底に平行となった場合にはストックが起きた状態となるので、 索や鎖で上部を引かれるとストックの抵抗で錨は回転し、 図のようにストックが横になって爪が海底に突き刺さる状態となる。 ストックアンカーは単純な構造でありながら、 確実に爪が刺さるので長年にわたって使用されてきた。
 ストックアンカーの欠点としては、収納に不便なことが挙げられる。 ストックアンカーは爪とストックが直行しているので、 そのまま収納したのでは大きな空間を必要とする。 ストックはずらすことが出来るようになっており、 図で言えば左の方向にストックをずらして手前に回転させれば、 ストックが錨の軸と平行になるので収納時に空間を節約することが出来る。 ただしこの状態では錨を打ってもストックの効果が得られないので、 投錨時には再び元に戻す作業が必要となる。 なおストックの一端が直角に曲げられているのは、この時の脱落防止が目的である。
 ストックレスアンカーはストックが無いので収納は便利であるが、 単にストックを廃止したのでは爪が海底に刺さらない。 そこで爪がある程度の範囲で回転出来るようにしたものであるが、 どのような状態で着底しても爪が刺さるために、 爪の形状や重量配分に工夫がされているようである。
錨収納  右の図はストックレスアンカーの収納状況を示したものであるが、 殆どの船がこのような状態になっているものと思って良いだろう。 錨は錨鎖によってホースパイプ内に引き込まれ、外板に設けられたベルマウスに固定される。 とは言っても、錨がどのような状態で揚がってきても固定出来るようにするためには、 何度も収納試験を繰り返しながらベルマウスの微調整を行う必要がある。
 ストックレスアンカーはストックアンカーと異なり、 収納状態からでも錨鎖を開放すれば直ちに投錨することが出来る。 この即応性の良さもストックアンカーを駆逐した要因の一つと考えられるが、 海上自衛隊では図の右に示すような状態(吊り錨と言う)から投錨する。 勿論収納状態からでも投錨は可能なのであるが、 万一の事態に備えてより確実を期するためである。 ストックアンカーの場合には準備の出来た錨をダビッドで吊り上げ、 舷外にまで移動させてこの吊り錨の状態にしておかなければ投錨出来ない。
 ダンフォースアンカーは爪の部分にストックを有する特殊な形状をした錨で、 ストックアンカーの良さを残しつつ収納も便利なように工夫されている。 レジャーボート等では多用されているようであるが、 大型船の場合には装備したとしても副錨として用いられる程度である。 戦後の潜水艦に装備されているマッシュルームアンカーは把駐力に対する期待よりも、 収納時の状態を重視した特殊な錨であると言うことが出来よう。 また、レジャーボートでもマッシュルームアンカーが使われているようであるが、 こちらは錨と言うよりも碇と言った方が適切であろう。
 
 一般乗客の乗る客船やカーフェリーの場合には、一部の例外を除いて岸壁からの出入港となる。 したがって収納状態の錨を目にすることはあっても、 投揚錨作業を目撃したことのある人が少ないのは止むを得ないことである。 作業状況は動画で見せるのが最善であるが、 動画の資料は持ち合わせていないので文章と図で紹介していく。
 揚陸艦等一部の例外を除いて錨は船首に装備されているので、 前進状態で錨を入れると錨鎖が外板をこすって傷を付けることになる。 したがって海自においてはバウソナー装備艦に限らず原則的に後進投錨であるが、 商船の場合には外板が傷付くことを承知で前進投錨を行うことも珍しくないようである。 最初から錨鎖の接触による磨耗を考慮して増厚してあれば強度的には問題なく、 塗料が剥がれて赤錆の出ることを気にしなければ運用上も問題ない。
 さて、錨は爪を食い込ませて船の移動を防いでいるが、 船を留める力(把駐力)は錨だけで得られるものではない。 投錨時には水深に応じて定められた長さの錨鎖を、ゆっくりと後進しながら繰り出していく。 水深以上に繰り出された錨鎖は着底して錨と共に把駐力を担うことになるが、 底質に応じて錨・錨鎖共に把駐力が異なってくるので、 予め底質を調査しておいて繰り出す錨鎖の長さを決めておく。 なお海自では錨鎖各節(1節は25m)の接続リンク(ケンターシャックル)に色を塗り、 繰り出した長さを把握し易いように工夫している。 子供っぽいと言う意見もあるようだが、 私は低費用で効果を上げられる実用的な工夫だと思っている。
海底の錨  船に働く外力が無い場合には、右図のAのように錨鎖が垂直になった状態で船は安定する。 しかし風等の外力が船に加わるとBのように船が流されて錨鎖を引っ張るので、 このような状態でも必要な着底部の長さを確保出来るよう、 錨鎖の長さを求めておかなければならない。 さらに風が強くなればCのように海底から離れてしまう錨鎖が長くなるので、 台風の接近が予想される場合等は繰り出す錨鎖の長さはさらに増すことになる。 なお錨鎖が長くなると船が振れ回る範囲が大きくなるので、 複数の艦船が錨泊する場合には相対位置に注意する必要がある。
 着底部の錨鎖は自らもその重さによって把駐力を担っているが、 錨鎖が着底することにより錨を引っ張る力が海底と平行になるので、 錨の爪がより効果的に機能すると言う効果も持っている。
 揚錨時には揚錨機で錨鎖を巻き上げて錨を引き寄せ、と言うのは間違いで、 錨を引き寄せるのではなく船自身が錨に近付いて行き、 錨鎖が垂直になれば錨を起こす状態となる。 海底に平行に引っ張られる状態では爪が効果的に働く錨であるが、 錨を起こすような力に対する抵抗力は微々たるものであり、 爪が岩等に引っ掛かるようなことが無い限り、引き揚げるのは容易である。
 
 ざっと投揚錨に関する話を紹介してきたが、 次回は錨鎖と錨の特殊な使用法等を紹介することとする。

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