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 巡洋艦「熊野」

 巡洋艦「熊野」は、改めて言うまでもなく「最上」型巡洋艦の4番艦であるが、 その戦歴等を記すことが本稿の目的ではない。

 グリコ株式會社(現在の江崎グリコ株式会社)では昭和12年から14年にかけて、 キャンペーンの景品として軍艦の模型を制作している。 これは製品に同封されているおまけではなく、 製品に入っている引換証を一定枚数集めることにより、 手に入れることが出来るものである。
 対象となっている軍艦は戦艦「長門」、巡洋艦「熊野」、駆逐艦「吹雪」の3隻で、 もらえる軍艦は引換証の枚数に応じて定められている。
 これら3隻の中、「長門」に関しては何ら問題はない。 「長門」は最も国民に知られ、親しまれていた軍艦だからである。 戦艦の代表として、最も相応しい艦であると言えよう。
 駆逐艦「吹雪」は特型駆逐艦の代表とも言うべき艦であり、 その精悍な艦影は、従来の駆逐艦と一線を画していると言って良い。 既に甲型駆逐艦の建造にも着手しており、秘匿性は減少していたものと思われる。 より精悍な模型の配布は海軍への注目を高め、 戦意の高揚にも繋がるであろうと考えていたのではあるまいか。 「吹雪」の模型制作を許可したのも、適切な判断であったと言って良いだろう。

 さて、問題は「熊野」である。 「熊野」の竣工は12年10月末となっているから、模型の制作は竣工前であったと考えられる。 勿論1番艦の「最上」は既に就役しているが、最新鋭の巡洋艦であることに違いはない。
 景品として3種類の艦種を選んだ場合、戦艦・巡洋艦・駆逐艦の組合せは最善であろう。 しかしその当時の代表的な巡洋艦と言えば、「妙高」であり、「高雄」であると言うことが出来る。 にも拘らず、まだ国民の間では知られていないと思われる「熊野」が選択された訳であるが、 当時の国内状況から判断して、会社側が艦名を指定したとは考えられない。
 では何故海軍は最新鋭の「熊野」を選択したのであろうか。 この景品は当時のチラシから推定して、 引換証さえ集めれば誰でも入手できたものと思われる。 当然外国のスパイもチラシを見ているであろうし、 実際に模型も入手したものと考えて良いだろう。 そしてスパイの注目を集めることこそが、軍の真の狙いだったのではないだろうか。
 チラシに掲載されている写真によれば、模型の主砲は3連装となっており、 まだ主砲の換装前だからこれは当然のことである。 模型の素材はブリキかと思われるが、出来栄えは到底精巧であるとは言えないもので、 模型から実艦の詳細を知ることは不可能である。 当然主砲の口径等は模型には反映されていないから、 15門の砲を搭載した本艦は、「妙高」や「高雄」の模型を作った場合よりも、 より強力な軍艦である印象を与えるのではないだろうか。
 この模型を手にした国民が、海軍の新鋭巡洋艦は多くの大砲を持った凄い船である、 と思えば大成功であり、目的の1つは達成させられる。 そしてスパイもまた、同じ様な印象を持つのではないだろうか。 たとえ主砲口径が小さなものであることを知っていたとしても、 主砲15門搭載の新鋭艦を国民にアピールしつつある、 と言う報告を本国に報告したとすれば、海軍の第2の目的も達せられることになる。 それだけ国民に宣伝している艦の主砲を換装するとは、 いかなる国でも考えないであろうから。

 日本では陸軍でも海軍でも、下士官兵の訓練は厳しいものであり、 その実力は世界に通用するものであったと言えよう。 そのような直接的な戦闘訓練に力を入れていた反面、 将官級の戦略に対する研究や、情報戦に関しては考えが甘かったと言わざるを得ない。 そんな中にあって、このような逆転の発想によって防諜行為が行われていたとすれば、 柔軟な発想力を持った担当者に拍手を送りたいものである。
 開戦前は「大和」型建造の機密保持を初めとして、 海軍全体に緊張感がみなぎっていたように見受けられるが、 こうした景品の模型一つを取ってみても、その様子が窺えるのである。 しかし緒戦の連勝気分から軍規は乱れ初め、 ミッドウェー海戦の時点では最悪であったと言うことが出来よう。 敗戦の原因として陸用爆弾の魚雷への換装が挙げられることが多いが、 最大の敗因は軍機の漏れであると言うべきなのである。
 そのミッドウェー海戦において、米軍は初めて「最上」型の主砲換装の事実を知り、 首脳部は愕然としたと言われている。 しかし私の個人的な意見としては、主砲換装は不必要であったと考えている。 換装前の方が対空射撃が有効であった、と言うような結果論的なものではなく、 換装工事に費やした国力を考慮してのことである。 しかし総力戦と言う概念が希薄であった首脳部においては、 目先の戦力しか見えなかった、と言うことであろうか。

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