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 乃木東郷〜その2

 次は東郷と日本海海戦に関してであるが、こちらは旅順攻防戦とは逆に、 東郷艦隊は圧倒的に有利な条件で戦いに臨むことが出来た。 同海戦に関する記述では敵前回頭等を賞賛する内容のものが多いが、 やはり旅順攻防戦と同様戦場の一場面だけを切り取るのではなく、 もっと大局的に検討しなければ真相に迫ることは出来ない。

 再び孫子の兵法書からの引用であるが、 第七篇軍争に「近を以って遠を待ち、佚を以って労を待ち・・・」と言う一節がある。 味方は戦場に近い所で十分に休養を取って英気を養い、 遠距離からやってきて疲労困憊状態となっている敵を叩く、と言うものである。 日本海海戦は正にこのような状態で行われたものであり、 これ以上理想的な条件で行われた戦いは、 陸海を問わず存在しないと言っても良いだろう。
 ロシア艦隊の状況に関しては、 プリボイ著の「バルチック艦隊の潰滅」が最も参考になるかと思う。 勿論同書は戦記小説に分類されるものであり、全面的に信頼できるものではない。 しかしプリボイは実際に戦艦「オリョール」に乗組んで回航及び海戦に参加しており、 プリボイ及び同僚の経験を書き連ねた同書は、単なる小説とは言い難いものがある。 小説とは言っても記録的な文書とも言えるものであり、 司馬遼太郎の「坂の上の雲」と同一視することは出来ない。
 公文書崇拝者から見れば、同書等は信頼に足らないものであるかもしれない。 では公文書とはどの程度信頼できるのであろうか。 国家が作成したものだから間違いは無い、と思っているのであれば、 この先を読んでも無意味なので即刻立ち去った方が賢明である。
 研究者の多くは公文書の類を重視して作業を進めていることと思われるが、 勿論その姿勢は決して間違ってはいない。 しかしその内容を十分に吟味することなく、過信してしまうのは危険なことである。 そのような結果として一般にも広まってしまった過ちの好例が、 別記事でも紹介している「長篠の合戦」における「鉄砲の三段撃ち」であると言えよう。 その実現性を検討することも無く、 文献に従っただけの大いなる過ちであると言っても過言ではない。
 太平洋戦争に関して言えば、防衛庁防衛研究所編集の戦史叢書が発行されているが、 やはりかなり実際とは異なるとの指摘を目にする。 編成等に関しては信頼性が置けるものと思われるが、 肝心の戦史に関しては海兵・陸士出身者に甘く、 それ以外の人間の実績に関しては無視してしまう傾向が見られるようなのである。 現在の日本でもこのような状況であるから、日露戦争当時、 あるいはそれ以後のロシアにおいても、 十分に信頼の置ける公文書と言うものは期待出来ないだろう。 勝戦である日本の場合は条件が異なるかもしれないが、 やはり大本営のような権力集団の失策が記述される可能性は、 極めて低いものと見て良いだろう。

 さて、本題に戻って日本海海戦に関する記述であるが、 その殆どが海戦当日をはさんで1週間程度の範囲内でしか評価していない。 そしてその多くが、戦艦何隻、大砲何門といった見かけ上の戦力、 言うなればカタログデータだけで両者の比較を行っている。 もう少し注意深く調査している者は、乗員の練度や疲労、 船底の汚れによる速力の低下やばら付き等も考慮して、 ロシア艦隊の戦力が低下していることを指摘している。 しかし実際に戦力をどの程度割り引いて判断するかは困難であり、 決定的な判断基準と言うものは存在しないだろう。
 プリボイの著書から判断するならば、 実際の戦力はカタログデータの3割にも満たなかったのではないかと思われる。 詳細な理由は別の機会に紹介するとして、その理由の主要なものを挙げるとすれば、 将校と下士官兵の対立、回航中に訓練らしい訓練は行っていないこと、 そして厳寒の地から灼熱の海を通過しての長期航海による健康被害等がある。 機関関係の故障が多かったことも、回航をより困難なものにしたようである。 なお訓練、特に射撃訓練に関して言えば、やりたくても出来なかったようである。 天候が良ければ洋上での給炭作業に追われ、 砲郭内でさえも石炭で埋まっていることが多かったのだから。
 日本艦隊に関しては、訓練・整備共に満点を付けても良いのではないだろうか。 恐らく他の多くの戦例を見ても、 これほどの好条件で戦いに臨んだ艦隊は無いのではあるまいか。 唯一の心配事はロシア艦隊がどこに来るかであるが、 これに対する東郷の判断は適切なものであった。 会敵出来ないことを恐れて戦力を分散配置するようなこともなく、 あくまでも集中して使用したことは大きな功績であると言えよう。 集中使用も言うことは簡単であるが、 実行するとなると肝が座っていなければ出来ないことであろう。
 ロシア艦隊が対馬海峡を選択したことに関しては、私も当然のことと思っていた。 恐らく東郷にしても、長期に亘る航海を続けてきたロシア艦隊は、 ウラジオへの最短コースを取るに違いない、と読んだことであろう。 しかし意外なことに、 プリボイの著書によれば対馬を選んだのはロジェストウェンスキーの独断であり、 多くの人間が津軽海峡を望んでいたと言う。 その理由は、 予想される決戦海域からウラジオまでの距離が最短となるためのようである。
 津軽選択の理由を読んで、なるほどそれも一理あるな、と思った。 事実対馬での海戦後、ウラジオへ逃げ込むために燃料節約を図って速力を落とし、 日本艦隊に追いつかれて撃沈された艦もあったのだから。 しかし津軽に向かうためには日本側の哨戒線を外すために、 台湾付近から大きく迂回して行く必要がある。 従って最低でも1回、余裕を持たせるためには2回の洋上給炭が必要となろう。 ロジェストウェンスキーはその作業を嫌い、最短コースを選んだのかもしれない。 可能性が低いとは言え、給炭作業中に日本艦隊が現れたら最悪の事態となるからだ。 ただし東郷を含む日本側が、そこまで読んでいたとは思えない。

 ここでは海戦そのものの経過については省略するが、 東郷の最大の功績を挙げるならば、 戦略目的をはっきりと認識しており、かつ目的を達成したことであろう。 日本海海戦に関する記述の殆どは戦術面からの分析に限定され、 戦略面から解析を進めた記事にはお目にかかったことがない。 インターネットで「日本海海戦」をキーワードに検索してみても、 上位に位置している記事にそのようなものは見られなかった。
 東郷艦隊の戦略上の目的はと言えば、言うまでも無くロシア艦隊の撃滅である。 そんなことは当たり前だと言う人も多いかと思うが、 そう思っている人の多くは戦術目的として見ているのではないだろうか。 どちらも「ロシア艦隊の撃滅」を目的としており、同じではないかと思うかもしれないが、 両者の間には大きな違いがある。
 分かり易いように具体的な例を挙げて説明しよう。 極端な例ではあるが、両艦隊とも全艦艇を喪失した場合を考えてみよう。 戦術的に見ればこれは引き分けである。 中には当初の戦力比、あるいは喪失トン数等を比較して勝敗を判定したい人もいるだろうが、 ここでは些細な事であるとして省略する。 最も重要なことは、ロシア艦隊が消滅しているのであれば、 戦略的には日本軍の勝利になる、と言うことなのである。
 では逆に、両者とも損害が無く、 ロシア艦隊がウラジオに逃げ込んでしまった場合はどうであろうか。 戦術的に見れば、やはり引き分けと見なすことが出来るだろう。 しかし戦略的に見るならば、ロシア艦隊を取逃がして目的が達成されなかったのだから、 完全に日本側の敗北であると言わざるを得ない。 そして東郷はこのことを十分に認識しており、戦略目的の達成に全力を尽くした。 従って味方の損害を低く押さえることよりも、 敵に大きな打撃を与えることの出来る戦術を優先したのである。
 しかしこの海戦に関する評価は、 海軍内部にあっても戦術面にしか目が向けられなかったように思えてならない。 その傾向は顧みられること無く太平洋戦争にまで及び、 太平洋戦争においては戦略よりも戦術を優先した戦いに終始した感がある。 当然のことながら、これではどうやっても戦略目的を達成することは出来ない。 山本五十六にしても、戦略的な洞察力では東郷に及ばなかったと言って良いだろう。

 戦争終結後の行動に関しては、東郷は乃木とは全く異なっている。 乃木の私欲の無い質素な生活に対し、東郷は海軍に対して大きな発言力を持っていた。 結果としてみるならば、退官後の東郷の海軍に対する助言は、 マイナス面の方が大きかったと言って良いだろう。
 日露戦争ではロシア艦隊の撃滅と言う大きな目標があった。 しかし目標と言うものは達成した途端に消滅する。 東郷も将来に向かって新たな目標を見つける必要に迫られた訳であるが、 戦争の危機が遠ざかれば具体的な目標と言うものは無くなってしまう。 将来に対する戦略眼が要求される訳だが、 流石の東郷も具体性の無い目標の選定は困難であったのかもしれない。 あるいは日本海海戦での戦術的勝利を賞賛する声に惑わされ、 徐々に戦略的洞察力が弱くなって行ったのかもしれない。

 今年は日露戦争の開戦、そして旅順攻防戦から百年、来年は日本海海戦から百年となる。 平和日本とは言いながらも、何らかの行事があるかも知れない。 とは言っても今の政府には期待出来ないし、 政府に任せたらとんでもない方向に行ってしまう可能性もある。
 明治の日本人は、現在の日本人よりも日本と言う国に誇りを持っていた。 不平等な条約の廃棄に奔走し、独立国家として自立することに努力していた。 それに比べたら、現在の日本及び日本人の体たらくは何たることであろうか。 独立とは名ばかりで、外国の軍隊が常駐して幅を利かせている。 己の自主的な意見も持てないような政府は、明治の政府には到底及ばない。 そのような政府を生み出した国民もまた、同様であると言うことが出来よう。

 乃木が見たら何と言うであろうか。
 東郷が見たら何と言うであろうか。

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