戦後の日本海軍における潜水艦の建造は、
水上艦の建造に3年程遅れて開始されることとなった。
日本は戦争を放棄しているので「海軍はまかりならん」と言う理由により、
当初は「海上警備隊」と呼ばれ、
建造された水上艦も「駆逐艦」ならぬ「警備艦」と呼ばれることとなった。
なおこの場合の「警備艦」は一艦種としての名称であり、
後に分類上複数の艦種を総称して呼んでいる「警備艦」とは異なるものである。
程なく「海上警備隊」は「海上自衛隊」へと呼称が変更されることになったが、
それに伴ってか「警備艦」は「護衛艦」と呼ばれるようになった。
相変わらず軍隊ではないと言うことで「駆逐艦」と言う名称を避けたのであるが、
米軍から貸与された「駆逐艦」まで「護衛艦」とはこれ如何に???
さて潜水艦はと言えば、流石に「水中警備艦」とは呼ばれなかったようである。
主たる使用目的が水上艦艇の対潜訓練の標的と言うことなので、
計画当初は「高速水中目標艦」と呼ばれていたようであるが、
なにやらかつての「甲標的」を思わせるものがある。
しかし「甲標的」では旧海軍時代のイメージ、
特に特攻的イメージが強く残っていたと思われるので、
やはり「甲標的」は不適当であると判断されたのであろう。
それならば「水中標的」とか「A標的」と言った名称も考えられなくは無いが、
やはり「艦」と言う文字を使用したいので、
最終的に「高速水中目標艦」と言う名称に落着いたのかもしれない。
しかし流石にそこまでひねくれた名前は不必要と思ったのであろう、
最初から潜水艦が「潜水艦」として就役したのは幸いなことである。
「おやしお」を潜水艦としての性能面から見た場合には、
著しく優れている艦であるとは言えないだろう。
しかし終戦後十年余りの空白期間を経て建造された艦である。
血気に逸って徒に高性能を狙うこともなく、
安全の確保と将来艦への資料収集という観点から見れば、
本艦はその建造目的を十分に達成していると言って良いだろう。
潜水艦への溶接の採用は旧海軍の「伊201」型でも実施されているが、
その時の資料がどの程度残されていたかは不明である。
完全複殻外肋骨式の潜水艦は旧海軍では多数建造されているが、
何れも鋲接艦であり、溶接艦の「伊201」は内肋骨式である。
潜水艦自体の建造も初めてであるが、
耐圧構造物に対する溶接の適用に関する研究についても、
恐らく戦後実施されたことはないかと思われる。
溶接構造は鋲接構造よりも丈夫だからと言って、
鋲接艦と同じ様に建造できると思ったら大きな間違いである。
現場の工作図を作成する人間、そして実際に現場で作業する人間にとっては、
どうしても溶接構造に関する資料が必要なのである。
内肋骨式であれば「伊201」の経験もある程度生かせるであろうし、
側タンク等非耐圧の個所に関しては、
溶接でも大きな心配はなかったことと思われる。
本艦の重量配分に関しては知りえないが、
兵装が比較的軽いことから判断して、
船殻に対する重量配分は余裕をもって割当てられたのではないだろうか。
また、後の水上艦で多く見られるように、予算が通り、
排水量が定められてからの要求性能の追加も無かったものと思われる。
艦船に限らず設計で一番困るのは頻繁な仕様変更(殆どが要求の増加)であり、
そのような経過を経て優秀な完成品が生まれることは先ず無いと言って良い。
本艦の場合にはその建造目的を逸脱することなく、
計画通り建造が進められたのではないかと思われる。
海上自衛隊幹部候生学校においては、
教育の一環として「潜水艦実習」と言う課目がある。
実習とは言っても早い話が艦内見学で、
ともかく潜水艦の実物を見せるのが目的であったと言って良いだろう。
現在でもそうだと思うが、水上艦では一般公開である程度艦内にも入れるが、
潜水艦の艦内が一般公開されることはない。
実際にシュノーケル航走でもすれば艦内気圧の低下等も体験することが出来るが、
候補生の進路は潜水艦以外の分野の方が多いので、
そこまでする必要はないと言うことなのであろう。
その当時(1972年度)既に「うずしお」型潜水艦が就役していたが、
実習の対象となったのがどの形式だったのかは覚えていない。
と言うのも、私は一人希望して「おやしお」での実習を申請し、
それが認められたからだ。
私が実習対象として「おやしお」を希望したのは、
それが内肋骨式構造を採用した唯一の艦であるからであり、
今後同様な構造の艦が就役するとは考えられなかったからだ。
実際に艦内に入ってみると、
当然のことながら内殻の内側には肋骨が円弧を描いて見えている。
その肋骨の深さ分だけ艦内の有効容積は減少するわけだが、
特に圧迫されるような印象は無かった。
私が比較的小柄(163p)だったこともあるかもしれないが、
映画や写真で旧海軍等の潜水艦の印象が残っていたためかもしれない。
確かに後の「うずしお」型に比べればずっと狭いし、
内殻直径がほぼ同じと思われる外肋骨式の「はやしお」と比べても、
やはり狭く感じられることは否めない。
しかし「おやしお」だけを見た限りでは、
著しく狭いとは思わなかったのである。
「おやしお」は船殻構造以外にも前大戦時の色が残っており、
操舵装置や弁の開閉装置等にその名残を見ることが出来た。
操舵装置は縦舵・横舵・潜舵が独立しており、
それぞれに操舵員が配置されていたと記憶している。
メインタンクを排水するための高圧空気を送る弁は一列に並んでおり、
それぞれを手動で開閉するようになっていた。
ベント弁を開閉するためのスイッチも近くにあったはずなのだが、
こちらは記憶に残っていない。
恐らく電動油圧弁ではないかと思われるので、
スイッチ自体は目立たない存在だったのかもしれない。
ハッチ等の開閉状況を示すディスプレイも存在していなかったから、
各部からの連絡を確認してから潜航に移るという、
従来からの運用法が採用されていたのではないかと思われる。
潜水艦実習を終えてふと思ったのは、
潜水艦乗りは小柄な人間の方が向いているのではないか、と言うことであった。
自衛隊に限らず殆どの軍隊において、
隊員の採用基準に身長・体重の下限はあっても、上限は無いものと思われる。
ただしこれは陸上自衛隊を退職した人間から聞いた話だが、
その人は体重が増えて制服が着られなくなったために退職させられたそうである。
しかし私の見た限りでは、過度の体重の増加によって運動能力が低下し、
任務を遂行することが出来なくなったことが原因かと思われる。
旧ソ連邦陸軍においては、
戦車兵は一定の身長以下の者に限定されていたそうである。
その目的は小柄の兵の方が必要とされる車内容積を減らすことが出来るので、
より車高の低い戦車とすることによって被弾確率を減少させるためである。
刀剣で直接戦う時代には大柄で力の強い人間が優っているが、
機械化によってその必要性は殆ど無くなって来たのである。
旧海軍における14cm砲の採用は、西洋人に比べて体力の劣る日本人が、
欧米列国の15p砲等と同等の射撃速度を確保するためとされている。
現在でも体力が必要とされる場面が皆無となったわけではないが、
殆どの場合その影響は無いのである。
潜水艦の場合、乗員による酸素消費量は潜航可能時間に大きな影響を及ぼす。
酸素消費量は概ね体重に比例すると考えて良いと思われるから、
同じ乗員数であれば小柄な人間の方が潜航可能時間は増すものと考えられる。
酸素消費量の問題は宇宙船の場合には更に深刻になると思われるし、
地上から乗員や観光客を宇宙に送り出す場合にも、
体重の大きな人間はより多くのエネルギーが必要となる。
本格的に軍用宇宙船が展開されるような時代になれば、
兵士の採用基準は大きく様変わりすることであろう。
最後は「おやしお」とは直接関係の無い話になってしまったが、
やはり「おやしお」の艦内に入れたことは貴重な経験となった。
実務についてから潜水艦を担当したのはほんの僅かな期間でもあり、
直接「おやしお」での実習が役に立ったわけではない。
しかしその後の潜水艦が機械の性能発揮を主目的として建造され、
乗員はそれらの機械を管理していれば良いというイメージがあるのに対し、
「おやしお」の場合にはかなり「人間臭さ」と言うものが残っていたように思われる。
現在の潜水艦にはかつての油にまみれた潜水艦の面影は無い。
大戦中の潜水艦の雰囲気を僅かながらでも感じることが出来たのは幸いであり、
実習対象として「おやしお」を選んだ賜物だと思っている。