艦船火災における消火活動に際しては、陸上火災の場合とは異なる点が幾つかある。
特に艦艇の場合にはその傾向が強く、
戦闘被害による火災以外の場合でも迅速確実な消火活動が求められる。
ここではハロンや二酸化炭素、あるいはライトウォーターのような窒息消火を除き、
放水消火における注意点を紹介することとする。
艦艇における消火活動で先ず問題となるのは、
対象区画が狭隘で突入口も極めて小さなものであることが挙げられよう。
一吋半の細いホースを使用しているのもそのためであるが、
障害物も多いので行動には細心の注意を払わなければならない。
当然照明は消えているので艦内は真っ暗であり、
光源は火災による炎のみとなる。
たとえ照明を携行していても区画が狭いので煙が充満し、
視界は極めて不良であることを承知しておく必要がある。
次に注意しなければならないのは延焼防止である。
艦艇の構成部材である鋼板は熱の良伝導体であるのに加えて薄いので、
容易に高温となって隣接区画に影響を及ぼす。
更に通風管等を通じて思わぬ所に延焼する場合があるので、
甲板や隔壁の冷却を行うと共に通風菅を確実に閉鎖しなければならない。
その他にも外洋であれば波浪によって船が大きく動揺する場合もあるので、
不安定な状況で消火作業に従事することになる。
もちろん戦闘中であれば敵の攻撃にさらされての消火活動となり、
弾薬類は通常専用の防火対策が施されているが、
戦闘時には運搬中に火災に遭遇する場合もありうる。
その最たるものは航空母艦であり、
航空機の搭載燃料と共に極めて脆弱な状態となっている。
更に艦船火災の特徴として、
放水と共にその消火水の排水を行わなければならないことが挙げられよう。
密閉された艦内で放水すれば当然その水は艦内に溜まることになるが、
その水の重量によって艦船が沈没すると言うわけではない。
注意しなければならないのは復原性であり、
水はちょっとした傾斜でも低い方に流れていくので、
丁度荷崩れを起こしたのと同じような状態となる。
特に高い位置での消火水は重心の上昇にもつながるので、
適切に排水していかなければならない。
消火水による復原性への影響は、
空母の格納庫のように幅広の広大な区画において最も著しいものとなる。
右図はその様子を簡単に示したものであるが、
格納庫内には縦方向の水密隔壁や仕切り壁が無いので、
図の右側のように溜まった水は低い方の舷側まで一気に流れ込んでいく。
船体中心線からの距離が長いので、
船を傾斜させようとするモーメントは大きなものとなる。
これに対して一般の艦艇では左側のように縦方向に隔壁等が設けられているので、
消火水はそれぞれの区画内での移動に止まる。
重心の上昇に関しては何れの場合も殆ど変わりないが、
緑で示す箇所のような状態であれば左右のバランスが取れるので、
消火水の移動による傾斜モーメントは遥かに小さなものとなる。
高所にある隔壁は非水密の場合もあるし、被弾によって水密性が保持出来ない場合もありうる。
しかし格納庫に比べれば遥かに小さな区画なので、
たとえ隔壁が非水密となった場合でも急激に水が流れ込むことは無く、
復原性に及ぼす悪影響は緩やかなものとなる。
火災が機関室の場合には右側の下部のように全幅に渡って水が溜まることになるが、
その形状から傾斜モーメントは比較的小さなものに過ぎない。
更に機関室の場合には重心を下げることにもなるので、
格納庫の場合のような危険性は無い。
復原性に関しては別記事の艦船の復原性で述べているが、
改めて重心の移動に伴う復原性の変化を紹介しておく。
右の図においてGはその船の重心で下向きの力が働き、
Bは傾斜後の浮心(浮力中心)で上向きの力が働く。
重力と浮力とは力の向きが反対なのでモーメントが発生するが、
これが復原モーメントであり、
両者の距離(GZ=復原梃)が大きいほど復原モーメントも大きなものとなる。
なお船体中心線と浮力の作用線との交点をメタセンタ(M)と呼び、
傾斜が小さい場合にはその位置が殆ど変わらないので、
重心からの距離GMを設計の初期段階では復原性の目安としている。
しかし傾斜した船を戻す力はGZの大きさによって決まるのであり、
GZが負になれば船の傾斜が進むことになる。
G1は消火水等によって重心が上昇した場合の一例であり、
復原モーメントを発生させるための復原梃G1Z1が小さくなる様子が分かると思う。
なお浮心は水線下の形状によって決まるので、
重心の上昇とは無関係である。
荷崩れ等によって重心が傾斜側に移動した場合にはG2のようになり、
復原梃G2Z2は更に小さなものとなる。
更に重心が移動してG3のような状態になればモーメントの向きは逆になり、
船を転覆させるような方向に働くことになる。
では実際には消火水の影響はどの程度のものなのであろうか。
旧海軍の艦艇に関する資料が少ないのは周知の通りであるが、
特に艤装関係の詳細については皆無に等しい状態であると言うことが出来るだろう。
したがってどうしても推定の領域が多くなってしまうのであるが、
空母「大鳳」を例にして検討してみることとする。
「大鳳」の上部格納庫の幅は18mであり、
格納庫甲板である上甲板の両側は居住区等に使われている。
舷側はDS鋼により防御されているが内圧により容易に開放される構造となっているので、
恐らく格納庫との仕切壁は非水密であったものと思われるが、
消火作業による溜水は格納庫内のみとして検討を進める。
格納庫内には6個の防火鎧扉が設けられているが、
これも火災の延焼を防ぐのが目的なので水密性はない。
しかしこれも検討を進める上では水密であると仮定し、
中央部の2個の鎧扉が破壊された場合を想定し、
対象区画の長さを118mとする。
消火海水喞筒(そくとう=ポンプ)の能力に関しては資料が見つからなかったのだが、
今日の話題社刊「海軍造船技術概要」の泡沫式消火装置に関する記事によれば、
床面積1u当りの吐水量を約0.6ton/hとして計画されたようである。
降水量に換算すれば600mm/hとなるからかなりの豪雨と言うことが出来、
30分放水したとすれば格納庫には30cmの深さで消火水が溜まり、
その重量は650屯ほどになる。
勿論実際には全ての消火水が残留しているわけではないし、
泡沫以外の消火水も放水されているはずであるが、
取敢えず一つの仮定として溜水量650屯での影響について検討してみる。
上部格納庫はキールラインから17m強の高さにあるので、
650屯の溜水であれば重心の上昇は0.13mほどとなる。
「大鳳」のGM(初期メタセンタ高さ)値に関しては不明であるが、
ほぼ同じ大きさの「翔鶴」の値から2.4m程度と推察されるので、
重心の上昇だけでは特に危険な状態とはならない。
液体は僅かな傾斜であっても低い方へ流れていくが、
船体が10度傾斜した場合を想定して検討すれば、この時の重心の移動量は0.13mほどになる。
復原梃に関しては復原力曲線が無いので正確な値ではないが、
10度程度の傾斜ではGM値の変化は殆ど無視し得るので、
溜水の影響を考慮しない場合の10度傾斜時の復原梃GZは0.4m程度と予想される。
即ち溜水によって重心が移動して復原梃が減少したとしても、
依然として復原モーメントが存在するので傾斜は10度以下で安定することになる。
格納庫両側の側壁が水密であるかどうかは不明だが、
たとえ水密構造であったとしても、
格納庫内で爆発等があれば水密性は大きく損なわれるものと思われる。
大破孔でなくても時間と共に浸水していくので、
先ずは溜水の半分が舷側の区画へ浸水した場合を検討してみるが、
この場合の重心の移動量は0.19m程度となる。
また、側壁の破壊が更に進んで溜水が自由に浸入するような状態では0.23mとなるが、
それでもまだ復原モーメントは残っているので傾斜は10度以下で安定する。
では消火作業に手間取り、更に30分経過した状態ではどうなるだろうか。
溜水が増えて重心が上がるので傾斜10度でのGZは0.38m程度となり、
格納庫内のみでの溜水では重心の横移動量は0.21m、
舷側にまで消火水が溜まった場合には0.42mになる。
したがってこの状態では復原モーメントが負となるので傾斜は更に進み、
GZが0となる角度で傾斜が止まることになる。
なお舷側部には徐々に浸水していく状況でも時間が長い場合には側壁の効果は無く、
舷側まで溜まった状態と同様な結果となる。
更に消火水が増えれば傾斜も大きくなり、
復原モーメントが負のままであれば船は転覆することになる。
空母以外の戦闘艦艇の場合には格納庫のような広大な区画は無く、
区画の高さもそれほど高くはないので空母ほど深刻な問題ではないが、
やはり消火作業は排水を実施しながら行うのが望ましい。
商船の場合には一般的な貨物船やタンカーでは問題ないが、
客船では非常に高い位置にまで広い区画があるので要注意である。
カーフェリーの場合には全長に及ぶ広大な車両甲板を有しているが、
位置的にはそれほど高くないので案外影響は少ないかもしれない。
ただし商船の場合には訓練を受けた応急要員がいるわけではないので、
消火水による復原性の悪化よりも火災そのものの脅威の方が大きいとも言えよう。
消火水の影響に限ったことではないが、
空母の場合には他の戦闘艦艇には無い大きな欠点がある。
空母においては航空機に対する排煙の影響もあってか、
煙突の装備位置や形状については関心を持っている者も多いようだが、
吸気系統に関しては全く知られていないように見受けられる。
しかし通常航海時においては何ら問題の無い吸気口であっても、
戦闘被害を受けた場合には煙突以上に弱点となる要素を有する。
一般的な艦艇においてはボイラ用の吸気口に限らず、
新鮮空気のための吸排気口は上部構造物に設けられるのが普通である。
しかし空母の場合には飛行甲板に開口を設けることは出来ないので、
どうしても舷側から吸排気せざるを得なくなる。
舷側に吸排気口を設けた場合には右の図でも分かるように、
復原力を十分に有するような傾斜でも吸排気口から浸水することがあり得るので、
計算上の復原性範囲よりも小角度で転覆の危険が発生することになる。
風浪によって艦船が傾いた場合には大傾斜であっても一時的なものなので、
多少の浸水があっても復原力が働くので傾斜は元に戻り、
浸水が直ちに転覆に繋がるわけではない。
しかし上記のように自由水や荷崩れ等によって船体が傾いた場合には、
自然に傾斜が元に戻ることは無いので浸水は致命的なものとなる。
「大鳳」の場合を例にとれば格納庫で大爆発があったとしても、
水線下の被害は1発の魚雷だけである。
その魚雷による被害も前部の小区画なので、
浸水量からも復原性からも沈没に至るものではない。
弾薬庫の誘爆も発生していないようだし、
ボイラの爆発によって舷側に破孔を生じるような事態も無かったようである。
このようなことから推測すれば、
応急作業の不手際から大量の消火水が格納庫に溜まり、
大傾斜を起こして吸排気口等から浸水し、
転覆・沈没に至った可能性は十分に考えられる。
現在の舷側エレベータを有する空母は同時に大きな開口を持っているわけであるが、
この開口は消火水が溜まるのを防ぐ効果も持っているかもしれない。
しかし大傾斜時には大量の浸水を許してしまう可能性もあり得ると思われる。
勿論平時には対策が施されているだろうが、
被弾した場合にはどのような状態に陥るか予想が付かない場合もありうる。
米海軍がどのような思想で空母を建造しているのか、
出来れば艦内に入ってじっくりと調べてみたいものである。