ナオくんの宝物〜再会
天狗岳からの下りは急な坂道でした。道の様子も一変していて、登ってきた北側の斜面
では岩がごろごろしていましたが、今度の下り坂は細かい石があって砂利道のようです。
ちょっと見ただけではじゃま物がなくて歩きやすいように見えますが、実際には細かい石
で滑りやすいので、用心して歩かなければなりません。
「ナオくん、滑るから気をつけなさい」
お母さんが注意したのと同時に、ナオくんは足を滑らせてその場に尻餅をついてしまい
ました。
「ほら、言ったばかりじゃないの。大丈夫?」
「ちょっと滑っただけだよ。けがなんかしてないよ」
ナオくんは照れ隠しに笑いながら、元気良く立ち上がりました。でも本当は、ちょっと
ばかり痛かったのです。
「ゆっくり歩けばいいのよ、あわてることはないんだから」
「うん、分かってるってば」
お母さんの注意をうるさいなあと思いながらも、ナオくんの足取りはより慎重なものに
なりました。山登りのコツは頭で覚えるのではなく、こうして体で覚えていくのです。
天狗岳を下り切った所は、草も木も生えていない荒地でした。まだ一日くらいしか歩い
ていないというのに、ナオくんは『山は面白いなあ』と患うようになりました。木立に囲
まれた道や湖があったかと思えば、岩ばかりが続いている道もあるし、砂漠のように何も
生えていない荒地もあるからです。
「さあ、これからが今日最後の上り道よ。少し休む?」
お母さんは、さっきナオくんが尻餅をついたことが、まだ気になっていたのです。
「ううん、疲れてなんかいないよ」
ナオくんは元気良く答えて、坂道を登り始めました。今度の上り道は僅かなものだった
ので、たちまち頂上に着いてしまいました。後ろを振り返れば、さっき登った天狗岳がそ
びえています。
今度の下り坂はそれほど急なものではなく、広い道の両側には何故かロープが張ってあ
ります。危険な場所でもないのにどうしてロープが張ってあるのか、ナオくんは不思議に
思いながら歩いていきました。そんなナオくんの後ろでお母さんの声がしました。
「あらっ、こんな所にコマクサが!」
お母さんの声でナオくんが振り返ると、お母さんはしゃがみこんでロープの外側の地面
を見ていました。
「何を見ているの」
「ほら、これを見て。コマクサよ」
お母さんの言われて地面を見ると、そこにはナオくんが見たことのない小さな花が咲い
ていました。
「わあっ、変な花」
「何言ってんのよ、変な花じゃないわよ。コマクサは高い山でしか見られない貴重な高山
植物なのよ」
お母さんはちょっと怒ったように言いました。
「コマクサは数が減っているから、人間が入って踏み荒らさないようにロープが張ってあ
るのよ」
「でも、向こうにも咲いているよ」
ナオくんの言うように、あちこちに薄いピンク色のコマクサの花が見られました。
「少しずつ数が増えているのね」
お母さんはうれしそうに言いました。
「コマクサは花屋さんにはないの?」
「高山植物は高い山でしか育たないのよ。だから花が見たければ、こうして山に登ってく
ればいいのよ」
お母さんは本当にうれしそうな顔をして、再び歩き始めました。少し行くとまた上り坂
になりました。さきほどのお母さんの話によれば、もう上り坂はないはずです。
「あれ、また上り坂だよ」
「ちょっとだけよ。ほんの少し行けば、すぐに平らな道になるわ」
お母さんの言う通り、今度の坂道は樹林帯に入るとすぐに平らな道になりました。やが
て緩やかな下り道になり、視界が開けると目の前には山小屋がありました。今日の目的地、
夏沢峠に着いたのです。
夏沢峠の左側はがけになっており、山小屋はそのがけの縁に建てられていました。いよ
いよモモンガの来る山小屋に着いたのです。もうすぐモモンガに会えます。ナオくんはど
きどきしながら入って行きました。
「こんにちわあ」
「いらっしゃい」
「モモンガに会えますかあ」
ナオくんはいきなりモモンガのことをたずねました。お母さんはびっくりしましたが、
小屋のおばさんは笑って答えました。
「はいはい、毎晩会えますよ」
ナオくんとお母さんは二階に上がって荷物を置き、時間も早いのでテラスで一休みする
ことにしました。ナオくんはまたココアですが、お母さんは今度は紅茶です。ナオくんが
ココアを飲んでいると、ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきました。小屋に着いた頃から
雲が出てきたのですが、とうとう雨が降ってきたのです。二人はあわてて中に入り、二階
に上がって窓から外を眺めました。
ガラガラガラガラー!
突然稲光がしたかと思うと、耳をつんざくような雷鳴がとどろきました。昼間だという
のに小屋の外は薄暗く、激しい雨音で話もできないくらいです。ナオくんはこんなにも激
しい雷雨にあったのは初めてです。
「早く着いて良かったわねえ」
お母さんがナオくんの耳元で、大きな声で言いました。あと三十分も遅かったら、雨に
降られていたことでしょう。
「お父さんは大丈夫かなあ」
ナオくんはお父さんのことが心配になりました。予定では午前のバス便で山に入り、夏
沢峠に向かっているはずです。
「大丈夫よ。きっとどこかの小屋で雨を避けているわ」
お母さんは山での雷雨を何度も経験しているので、特に心配はしていないのです。
「こんにちは。おじゃましますよ」
中年の夫婦が、荷物を持って上がってきました。
「今着いたところですか、雨に降られたでしょう」
「ええ、もうちょっと遅く降ってくれたら良かったのですが」
「でも樹林帯に入ってからなので、少しは助かりましたわ」
「そうだね、風も強かったからなあ」
黙って話を聞いていたナオくんは、またお父さんのことが気になりました。しかし激し
かった雷雨は一時間ほどで止み、お父さんもまだ明るいうちに小屋に着きました。
「いやあ、中山峠まできたら怪しい雲行きなので、小屋に逃げ込んでおいて助かったよ。
無理して登っていれば、天狗岳の途中で雷に遭っていたからね」
「そうね、的確な判断だったわ」
お父さんより経験豊富なお母さんも、お父さんの行動に同意しました。その後はだれも
来なかったので、この日の小屋の客は五人だけとなりました。
「ご飯ですよ一」
階段の下で小屋のおばさんの声がしました。
「ねえ、モモンガはまだ来ないの」
ナオくんは夕ご飯を食べながらたずねました。
「まだ明るいから来ないわね。もう少し暗くなったら、ほら、そこの窓の外にあるエサ台
にやって来るのよ」
おばさんは窓を指さして言いました。窓の外には小さなエサ台があり、その向こうには
大きな木がそびえています。
「ほう、モモンガが来るのですか」
九州からやってきたという中年のおじさんは、驚いたような声で言いました。どうやら
モモンガが来ることは知らないで、偶然この小屋に来たようです。
「ええ、すっかりなついちゃって。家族みたいなものですよ」
「いやあ、今日は雨に降られてひどい目にあったけど、モモンガが見られるのなら苦労も
報われるというものだ」
おじさんはそう言って、奥さんと顔を見合わせてにっこり笑いました。どうやら二人と
も動物が好きなようです。
夕ご飯を食べ終えて一行が二階で一休みしていると、また階段の下からおばさんの声が
聞こえてきました。
「モモンガが来ましたよ」
ナオくんは急いで降りようとしましたが、お父さんはナオくんを押し止めて言いました。
「直人、静かに行かないと逃げてしまうかもしれないぞ」
お父さんの意見に従って、一行は静かに階段を降り、そっとエサ台のある窓に近付きま
した。
『やったあ!』
ナオくんは思わず大きな声を出してしまうところでした。エサ台の上では大きな目をし
たモモンガが、夢中でエサとしておかれているヒマワリの種を食べています。モモンガは
ナオくんたちの存在は全く無視しているようですが、ナオくんには、そのモモンガが今に
も話しかけてきそうな気がしてなりませんでした。
窓の外にはほのかに明るさが残っているので、モモンガの様子ははっきりと見ることが
出来ます。お父さんもお母さんも黙ってモモンガを見ていましたが、九州から来たおじさ
んはカメラを持って、恐る恐る小屋のおばさんにたずねました。
「写真を撮っても大丈夫ですか?」
「あまり騒ぐと逃げてしまいますが、写真は大丈夫ですよ」
おばさんは静かに答えました。
「ストロボも大丈夫ですか?」
「ええ、光はあまり気にしないようです」
おじさんはさらに窓に近づき、ゆっくりとカメラを構えました。一瞬ストロボの光が閃
きましたが、モモンガは相変わらずヒマワリの種を食べ続けています。
「うまく撮れていればいいんだけれど・・・」
中年のおじさんは、子供のような顔をしてつぶやきました。ナオくんも、うまく撮れて
いればいいのに、と思いました。
満腹になったのか、やがてモモンガは姿を消しました。一行はランプの光の下で、初め
て見たモモンガの感想を話し合っていましたが、ナオくんはユサ台に何か動くものを見つ
けました。
「あれ、何かいるみたいだよ」
「多分、ヤマネでしょう」
今度は小屋のおじさんが答えました。ナオくんは急いで窓のそばに行きました。
「ヤマネも来るんですか」
「ええ、モモンガがいる時には来ないようですけれど」
ヤマネはモモンガよりずっと小さな生き物でした。でもナオくんがいることなど全く気
にもしていないようで、ヒマワリの種を食べ始めました。やがてもう一匹現れ、同じよう
に食べ始めました。
「あれ、また来たよ」
三匹目のヤマネがエサ台に上がると、前からいた一匹のヤマネと追いかけっこを始め、
二匹とも姿を消してしまいました。残った一匹はそのまま食べ続けていましたが、モモン
ガがエサ台にやってくると、追い出されるように去っていきました。
「モモンガはヤマネをいじめているの?」
ナオくんはちょっと心配になったので、後ろを振り向いて小屋のおじさんにたずねまし
た。
「いや、いじめている訳じゃあないよ。でも体の大きさが全然違うから、ヤマネにすれば
居心地が悪いのかもしれないね」
おじさんの言葉でナオくんは安心しました。やがてモモンガも去り、大人たちは休むた
めにそれぞれの寝床にいきました。でもナオくんはランプの明かりの下に一人で残り、ま
だこれからやって来るかもしれないモモンガを待ち続けました。
「ナオくん、もう休みましょ」
お母さんは心配になって、二階から降りてきました。
「もうモモンガは来ないかもしれないのよ」
「ううん、絶対にまた来るよ」
ナオくんは、もっともっとモモンガに会いたかったのです。
「そうなの、でも眠くなったら上に来て寝なければだめよ。ここで寝たら風邪をひきます
からね」
「うん、大丈夫だよ」
ナオくんがしっかりと答えたので、お母さんは不安ながらも二階に帰っていきました。
ナオくんはなおも待ち続けましたが、モモンガはなかなかやってきません。やがてナオく
んは、うとうとと居眠りを始めてしまいました。
「お一い、起きろよ。一緒に空を飛ぼうぜ」
何者かがナオくんを呼んでいます。
「ほら、早く目を覚ませよ」
ナオくんがぼんやりと目を開けると、窓枠の上に一匹のモモンガが座っていました。
「さあ、また一緒に空を飛ぼうぜ」
そのモモンガは、先週夢の中に出てきた、柿の木で出会ったモモンガでした。
「でも、この前ぼくは落ちちゃったよ」
「それは君が悪いのさ。ぼくの言うことを聞かないからだよ」
ナオくんも、手をたたいたことについては反省していました。
「よおし、今度は失敗しないぞ」
「その調子その調子。さあ行くぞ、後について来いよ」
モモンガはエサ台へ、そしてそばの大木へと跳び移ると、どんどん上に登って行きまし
た。ナオくんもためらうことなく、モモンガの後に続きました。不思議なことにそのモモ
ンガの後を着いて行くと、大木も簡単に登れてしまいます。モモンガは梢まで登ると、ナ
オくんを振り返って言いました。
「さあ飛び出すぞ、準備はいいかい?」
「いつでもいいよ。同じ失敗は繰り返さないからね」
ナオくんの返事を聞くと、モモンガは身を踊らせて空中に飛び出しました。すかさずナ
オくんも後に続きます。モモンガは木々の間を巧みにすり抜けて飛んでいき、ナオくんも
その後にぴったりと付いて、同じように飛んでいきました。
「やあ、今日は上手に飛べるじゃないか」
前を飛んでいたモモンガは、ヒラリと宙返りをしてナオくんの横にきて言いました。
「宙返りもできるなんて、君はすごいんだね」
ナオくんは、今度は墜落しないように飛行姿勢を保ったまま、隣にきたモモンガに返事
をしました。自慢の宙返りをほめられたモモンガは、御機嫌なようです。
「これは苦労して覚えた高等技術なんだぜ。この森にいるモモンガの中でも、宙返りがで
きるのはぼくだけさ」
「ふ一ん、ぼくにも教えてよ」
「ダーメダメダメダメ。やっとのことで空を飛んでいる君に、この難しい技を覚えられる
はずはないよ。また墜落するに決まっているじゃないか」
ナオくんはちょっぴり不満でしたが、下を見てあきらめました。がけの上から飛び出し
たので、とても高い所を飛んでいたのです。こんな高い所から落ちたらひとたまりもあり
ません。
「さあ、あの大きな木に着陸するぞ。ぼくがお手本を見せるから、良く見ておかなきゃだ
めだよ」
モモンガはそういうと少しスピードを上げ、大木の手前で体を立てるようにしてスピー
ドを落とすと、ぴたりと大木に着陸しました。ナオくんも同じように姿勢を変えると、上
手に着陸することができました。
「どうだい、ぼくの言う通りにすれば簡単だろ」
モモンガはそう言うと、どんどん上の方へ登っていきました。ナオくんも後に続きなが
ら、モモンガにたずねました。
「ねえ、お母さんの所へはどうやって帰ったらいいの」
「ぼくの後について来れば、心配はいらないって」
モモンガは大木のてっぺんまで登ると、山の上の方にある木に向かって飛び出しました。
ナオくんもすかさず後を追います。同じことを何回も繰り返すうちに、ナオくんは少し疲
れてきました。でも最後に登った大木の前には、山小屋とエサ台がありました。
「どうだい、すてきだっただろ」
「うん、でもおなかがすいちゃったよ」
「じゃあ特別にこれを上げるよ。これは普通のヒマワリの種とは違って、ぼくの宝物なん
だぜ。これを食べれば元気が出るよ」
モモンガはそう言って、かじりかけのヒマワリの種を差し出しました。
「ナオくん、こんな所で寝たら風邪をひきますよ」
ナオくんはお母さんの声で目を覚ましました。
「あれえ、モモンガは?」
「もういないわよ。ほら、上に行ってもう寝ましょ」
窓の外にはエサ台があるだけで、モモンガもヤマネも姿は見えません。ナオくんはまた夢
を見ていたのです。
次の日の朝、ナオくんは朝ご飯を食べながら、モモンガと一緒に空を飛んだことを話
しました。でもだれも信じてくれないので、ナオくんは不満そうな顔をしていました。
「せっかくここまで来たのだから、硫黄岳にも登ろうか」
お父さんがお母さんに向かって言いました。
「私はいいけれど、ナオくんは疲れてない?」
「ぼくだって大丈夫さ」
ナオくんはお母さんに向かって、元気良く答えました。三人は重い荷物は小屋に置き、
身軽な格好で硫黄岳に向かいました。
一行は一時間ちょっとで、硫黄岳の頂上につきました。頂上とは言ってもそこはだだっ
広い所で、どこが一番高い場所なのか分かりません。でも展望は良く、空気が澄んでいる
のですばらしい眺めが広がっていました。
硫黄岳の北側は、垂直に切り立ったがけになっています。火山である硫黄岳が、昔爆発
した時にできたものです。ナオくんはがけから下をのぞき込みながら思いました。
『ここから空に飛び出したら、すてきだろうなあ』
お母さんはナオくんが落ちないように、すぐ後ろで見守っていました。山頂は思ったよ
りも寒く、風も出てきたのでナオくんたちは小屋に戻ることにしました。
帰る準備をしていたナオくんは、ランプを見てまた欲しいと思いました。そんなナオく
んに、小屋のおじさんが言いました。
「あのランプは上げられないよ。でもね、宝物というのは、形があるものとは限らないん
だよ」
小屋のおじさんは、ナオくんが宝物を探していることを、お父さんから聞いて知ってい
たのです。
「モモンガと一緒に空を飛んだことは、一生の思い出に残る宝物だと思うよ。他人が信じ
るかどうかは、関係のないことさ」
ナオくんは、そうだ!これこそぼくの宝物だ、と思いました。そしておじさんに向かっ
て、にっこりと微笑みました