妙義山・幻の登山道〜異変に対する考察
まず一般的に考えられることは、『道を間違えた』と言うことであろう。
だがこの件に関しては、絶対にそのようなことは無いと自信を持って断言できる。
山で道に迷う場合、下りでは尾根筋、登りでは沢筋での事故が多いとみて良いだろう。
それぞれ進むに連れて分岐していき、誤った方向に進む可能性があるからだ。
しかしその逆の場合には、進むに連れて道は合流し、最終的には一点にたどり着く。
出発点が定まれば、その後の経路は必然的に決まってしまうと言っても良いだろう。
なお誤解の無いように断っておくが、下山時にも尾根道を使うのが原則である。
仮に道を間違えたとしても、遭難に至る恐れは少ないからだ。
私の場合を例にとれぱ、始点は稜線上の指導標のある分岐点であり、
終点には国民宿舎というはっきりした目標がある。
沢筋に沿って歩いている限り、どうやっても間違えようが無いのである。
もし、分岐点を出て直ぐに桶木沢に踏み込んだのであれば、
終点は国民宿舎ではなく、妙義湖畔の林道となるはずである。
たとえ状況が異様なものであったとしても、
それが篭沢であることについては全く疑う余地は無い。
次に考えられるのは、『寝ぼけていた』と言うことである。
だがこれも説得力は無い。
もし寝ぼけていたのならば、岩のゴロゴロした沢筋の道を、
90分以上も無事に歩けるはずは無いからだ。
昔の兵隊は眠りながら歩いたこともあるそうだが、
山道の単独行でそのようなことは考えられない。
事故防止に関して書かれた人間工学の本によれば、
大脳の生理状態を次のように分類している。
(林喜男著海文堂刊「人間信頼性工学」より)
フェーズ | 意識の状態 | 注意の作用 |
生理的状態 | 誤操作比率 |
0 | 無意識・失神 | ゼロ | 睡眠・脳発作 | - |
T | 意識ボケ | 不注意 |
疲労、単調、睡気、酒酔い | 1/10以上 |
U | 正常-リラックス | 心の内方へ |
安静起居、休息、定常作業時 | 1/100〜1/10万 |
V | 正常-クリア | 前向き |
積極活動時 | 1/100万以下 |
W | 過緊張 | 1点に固執 |
感情興奮時、パニック状態 | 1/10以上 |
最も誤操作の少ないのはフェーズVの状態であるが、
この状態を保てるのは15〜30分程度とされている。
我々の一般的な日常行動はフェーズUの状態であり、登山の場合でも同様であると考えられる。
ただし鎖場のように危険を伴う箇所においては、
当然フェーズVの状態に移行しているものと考えて良いだろう。
分岐点で進路を確認する場合、一般的にはフェーズUの状態であると思われる。
通勤のように毎日同じ経路を通っている場合には、
何か別のことを考えながら歩いていたとしても、
すなわち半分寝ぼけているような状態であっても(フェーズT)、
無事に目的地まで行けることもある。
しかし通るのが2度目の登山道において、
重要な分岐点をフェーズTの状態で通過するとは考えられない。
最初はフェーズUの状態で通過し、分岐点まで引き返して進路を確認している状態では、
フェーズVにまで高まったと考えるのが妥当な見解であろうと思われる。
フェーズWはパニック状態であり、
遭難者の場合にはこの状態になることが多いかもしれない。
しかし仮にこの状態にあったとしても、垂直に伸びた鎖と、
水平に張られた虎ロープを間違えるとは考えられない。
フェーズTの状態なら間違えることもあり得るだろうが、
引き返しての進路の確認がそれを否定している。
結論としては、寝ぼけた状態のままで篭沢を歩き通したとは、
どうしても考えられないのである。
3番目の可能性は、『デジャブ現象』である。
岩壁にロープの張られた登山道は珍しくも無いし、
裏妙義の縦走路にもそのような箇所があったと記憶している。
全く同じ状態の道はあり得ないのだが、
同じような印象を受ける登山道は何度も経験していると言って良い。
岩角の尖った沢道にしても、ごくありふれたものに過ぎない。
デジャブ現象の詳細については知らないが、前述の大脳意識レベルに当てはめて考えてみれば、
やはりフェーズTの状態で起こり得るのではないだろうか。
もちろん実際にはこのように明確に分類できる訳ではなく、その中間の状態も存在しうる。
しかしながら最も冷静で正確な判断を下すことのできるフェーズVの状態においては、
デジャブ現象は起こり得ないのではないだろうか。
私見ではあるが、デジャブ現象は脳における記憶回路の混線ではないかと思われる。
フェーズVは全ての思考回路が設計適りに働いている状態であるから、
たとえ一部に異常が発生したとしても、直ちに正常状態に復帰すると考えても良いと思われる。
したがって仮にデジャブ現象が発生したとしても、
進路を再確認している段階で正常状態に戻るはずである。
デジャブ現象に関しては、普通の旅先でそれらしきものを経験したことがある。
初めて訪れる町なのに、以前来たことがあるように感じられるのであるが、
実際にも駅前の町並みは似たような感じの所が多いのではないかと思う。
時間的には夕刻以降であるが、これは夜景になると明かりに惑わされ、
識別するための材料が減少するためと思われる。
長時間電車に揺られて疲労していることも一因と考えられ、
この場合はフェーズTとUの中間の状態にあるかと思われる。
デジャブ現象の持続時間については不明であるが、
90分以上も持続することはあり得ないのではないだろうか。
一時的にはデジャブ現象に陥ったとしても、
岩がゴロゴロしている沢道を長時間にわたって無事に歩き通すためには、
正常な精神状態に戻っていなければならないはずである。
デジャブ現象の発生も、やはり否定せざるを得ない。
4番目の候補は、『狐か狸に化かされた』可能性である。
しかし動物が人間を化かすなどと言うことは、現実にはあり得ないことである。
動物が動物を化かす(欺くと言うべきか)場合をみても、それは己の身を守る場合か、
食料として相手を捕らえる場合である。
極めてまれな例ではあるが、好奇心で相手を殺す場合も実際に存在するようである。
しかしそれは自分の安全が確保されている状態であり、
好奇心だけで危険な行動を起こすことは無い。
狐や狸に人間を欺く能力は無いし、仮にあったとしても、
危険を冒してまで実行することは無いだろう。
それにもかかわらず、狐や狸が人間を化かす話は昔から語り継がれてきた。
その理由の一つとして考えられるのは、
人間が人間自身の行動(多くの場合は悪事)を隠すための作り話である。
己にかけられた疑惑を動物にそらすことができれば、これ程好都合なことはないだろう。
『神隠し』と称して処理された事件も、
権力者が疑惑をそらすための手段であると考えて良いだろう。
しかし私の場合にはこれも当てはまらない。
他人に悪戯をしてその様子を撮影し、TV放送するような番組も存在するが、
道を変えるほどの大掛かりな工事をして私をだましても、
それだけのメリットは無いだろうから。
では狐や狸ではなく、『宇宙人の仕業』であると考えたらどうだろうか。
宇宙人の存在については証明はされていないが、存在しないこともまた証明されていない。
なお言葉の便宜上宇宙人としているが、
要するに人間以外の知的生命体の仕業ということである。
人間が他の動物の生態を調べる場合、タグと呼ばれる認識票や、
小型の電波発信機を取り付ける。
もし高度に文明の発達した生命体が人間を調査するとすれば、
直接脳の活動状況にアクセスすることであろう。
人間が外部から得た情報も、それに反応してとられる行動も、
全て脳を調べれば分かることである。
単なる受動的な調査だけでなく、
最近話題となっている『仮想現実』による積極的な調査も考えられる。
人間が自分自身のセンサーから得た情報よりも、
仮想現実により与えられた情報の刺激が強ければ、脳は後者の情報を認識することになる。
網膜には垂直に伸びた鎖の像が結ばれていても、
神経系統に作用して信号を書き換えてしまえば、
脳によって判定される結論は水平の虎ロープとなってしまう訳である。
直接脳を刺激するのであるから、視覚や聴覚情報だけでなく、
触覚による情報についての操作も十分に可能であろう。
宇宙人と言うと、直ちにいわゆるUF0と結び付けるのは、
あまりにも安直な考え方である。
何十万光年もの彼方からやってくるだけの文明があれば、
人間に発見されずに調査等を行うことは、極めて容易な作業に過ぎないであろう。
意識的にやっているのでなければ、そう安々と視認されるとは思えない。
三次元空間の飛行物体であっても、可視光線に対するステルス化は容易なはずであり、
高次元空間の飛行物体ならば、全く気付かれずに各種の調査が可能となるであろう。
昔からの狐や狸に化かされたという話も、
宇宙人による隠密調査と考えれば説明がつく。
西遊記の中で、孫悟空がキント雲に乗って宇宙の果てまで飛んだと思ったが、
そこはまだ釈迦如来の手の中だった、と言う話がある。
人間は万物の霊長であるとして驕っているが、
それは地球、もしくは太陽系という閉社会における話に過ぎないのだ。
銀河系を箱庭としているような生命体から見たならば、
水槽の中の金魚のようなものかもしれないのである。
さて、篭沢における奇現象の最後の推論は、
SF的になるが『タイムスリップ』の可能性である。
タイムマシンが空想上の機械であるのと同様、
タイムスリップについても科学的な証明はなされておらず、
恐らく否定的な意見の方が多いかと思われる。
しかしここではタイムスリップの存在に関する議論は避け、
あり得ると仮定して検討を進める。
既に述べたように、私が3度目に下山したコースは間違いなく篭沢である。
にもかかわらず、登山道の様子はそれ以外の場合とは全く異なっていた。
自然はゆっくりではあっても確実に姿を変えていく。
当然篭沢も時代と共に変化しているはずであり、何十年振りかで訪れたとしたら、
その変貌に戸惑うことになるだろう。
もし私が異なる時代の篭沢にタイムスリップしたのだとすれば、
登山道の様子が異なっていても不思議ではない。
岩角が鋭いことから過去へ行ったものと考えられるが、
それでも虎ロープが製造された時代以降となるから、それ程古い時代ではない。
また、指導標に書かれた文字が『妙義湖』だったとすれば、
妙義湖を生み出したダムの完成が1958年であるから、それ以降の時代と考えられる。
タイムスリップ説と仮定する場合、
密接な関係にある『パラレルワールド』についても触れておかなければならないだろう。
現在我々が住んでいる世界と同じような世界が、四次元空間に広がっていると言う仮説である。
各々の世界に住んでいる人間の行動が異なれば、
当然その世界は我々の世界に似ていて異なる世界となるだろう。
例えば将棋の局面のように、最初は全く同じであっても、
指し手が進むに連れて無数の異なった世界に分岐する訳である。
時には手順が前後して同じ局面となることもあるが、
同様なことはパラレルワールドにおいてもあり得るだろう。
何かの拍子で他の世界に入り込んだとしても、全く別の世界だと感じる場合もあれば、
少しばかり首を傾げる程度のこともあるだろうし、全然気付かない場合もあるだろう。
あるいは元の世界に戻った時に、狐か狸に化かされた、
と惑じるようなこともあるかもしれない。
パラレルワールドにおける各々の世界においては、
時間の進み方が異なっていても不思議ではない。
したがってもしそのような世界に入り込んだとしたら、
単に周囲の状況が異なっているだけでなく、
過去か未来の時代にタイムスリップしたように感じられるのではないだろうか。
三次元から四次元に至るもう一つの次元が時間であるとすれば、
パラレルワールドにおける他の世界への移行は、
正にタイムスリップそのものであると考えても良いのではないだろうか。
もちろんタイムスリップには、数々の疑問点も残っている。
その中で特に私が気にかけているのは、
本人以外にどの範囲の物質が移行するのか、と言うことである。
これはテレボートの場合にも言えることなのだが、
着衣や所持品も一緒に移行するのはなぜかという問題だ。
体内に密閉された空気は一緒に動いても納得できるが、
呼吸中の空気は果たしてどうなるのであろうか。
さらに空気の場合には、タイムスリップ先での空気と混合されることになるので、
一層説明が困難な疑問点として残る。
しかし、証明できなければ事実ではない、と断定することもできない。
例えば地動説が証明できない時代においても、
当然地球が宇宙の中心ではなく、地球は太陽の周りを回っていたであろうから。
なお、丁須ノ頭を出てから国民宿舎に着くまで、
下山路への不信感を除いては、精神的にも肉体的にも異常は感じられなかった。
したがってタイムスリップしたと仮定した場合でも、
それがどの時点で発生し、どの時点で復旧したのかは不明である。
タイムスリップ時には身体的な異常を伴うのかどうかは分からないが、
瞬時に移行したのならば周囲の風景は変化するはずである。
しかし時間の流れは連続的であり、
タイムスリップもカタストロフィー的に発生する場合もあれば、
時間の流れに沿って連続的で緩やかに発生する場合もあるだろう。
その場合には風景の変化も緩やかなものになるであろうから、
タイムスリップしていても全然気がつかない状態も十分にあり得る。
人間が急激な変化には鋭敏であっても、緩慢な変化には愚鈍な生物であることは、
昨今の自然破壌状況を見れば納得できるだろう。
さて、妙義山における奇現象について私なりの検討をした訳であるが、
断定できる説は存在しない。
個人的にはタイムスリップ説に魅カを感じるのだが、
やはり実際にあり得るのかどうかの疑問は残る。
人間が超常現象に遭遇する場合、脳に何らかの異変が発生していることは十分に考えらる。
私の場合は本件が発生した年の前年、当逃げ事故に遭って頭部を強打している。
頭部の外傷は傷跡が残っている程度で問題はないが、
右手人差指の痺れが後遺症として残り、一昨年からは耳鳴りに襲われて現在まで継続している。
その間にも突然のめまいや、脳の一部が熱っぽくなるような症状に襲われている。
事故直後及ぴ翌年5月のCT検査、一昨年のMRI検査及ぴ脳波測定では、
脳の内部異常は見つかっていない。
しかし神経の損傷はそのような検査では発見できないであろうし、
後遺症から判断してどこかに損傷が残っていることは確実である。
脳の損傷が本件と関係あるかどうかは分からないが、無視し得るものとも思われない。
裏妙義へはその後も何度か登っているが、異常は発生していない。
しかし山の『気』に押されるというか、気分が乗らなくなることはある。
このようなことはベテランの人でもあるようで、ヒマラヤの八千メートル級の峰を登った人でさえ、
山麓まで行って引き返したと言う記事を読んだことがある。
裏妙義への登山は、今後も続けるつもりでいる。
もし私が行方不明になったとしたら、それは一般の遭難によるものではなく、
本件の再発と思っていただきたい。
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