終 章
南下を始めて2日目、海面は朝から深い霧に閉ざされていた。
「最後の日だと言うのに、朝から霧になるとはついてませんねえ、船長」
食堂から上がってきた荒川に、舵輪を握りながら野口が話しかけた。
「いや、霧だからこそ、現れるかもしれないんだ」
伯父は夢でも見ているかのように、漫然とした口調でつぶやいた。
専用の椅子の背もたれを倒し、椅子に座ったまま夜を明かしたのだ。
「塩見さん、ずっとここにいたんですか」
荒川は伯父に食事を勧めたが、伯父は動かなかった。
その頃観測室では、剣が異変を発見していた。
「片山さん、不思議ですよ。どんどん浅くなっていきます」
「確かにこれはおかしい。海図ではこんなに浅いはずは無いんだが・・・
もし岩礁でもあったら危険ですから、念のために船長に報告しておきましょう」
報告を受けた船長は海図で確認したが、
危険と思われるような岩礁はどこにも記載されていなかった。
「片山さん、何か聞こえます。鳴き声です、これは動物の鳴き声ですよ」
剣は興奮し、片山も受話器を被って確認した。
「何だか悲しそうな声ですね」
「ええ、でもこれは私も初めて聞く鳴き声です。アザラシやイルカではありません」
「鳴き声が近付きます。右舷です」
剣の言葉は、スピーカーによって船内各部に伝わっている。
「右舷に注意しろ!」
船橋も急に慌ただしくなって来た。総員が配置につき、霧の海に神経を集中した。
「船長!霧が晴れていきます」
右舷見張りの五竜が絶叫した。
深く海面に立ち込めていた霧が、次第に薄くなってきたのだ。
そして四万十の右舷海面には、動物らしいものがうっすらと姿を現した。
「写真だ!急げ!」
一瞬の間をおいて荒川が叫んだが、その時にはもう霧が深くなっていた。
ほんの一瞬の出来事だったのだ。
観測室でも鳴き声が小さくなり、やがて完全に聞こえなくなってしまった。
そして水深も次第に深くなっていった。
伯父は探索を打ち切るよう指示し、全員を船橋に集めて話し始めた。
「みんな聞いてくれ」
伯父の声は大きなものではなかったが、しっかりとした口調だった。
「ほんの一瞬だったが、あれは間違いなくステラー海牛だ。私はそう信じている」
「写真を撮るのが遅れてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
荒川は首をうな垂れて言った。
「いや、いいんだ、船長。そんなことは気にしないでくれ」
伯父は態度を変えることなく、落ち着いて言った。
「でも鳴声は録音出来ました。大丈夫だよね、剣さん」
「はい、多少雑音は入っていますが、十分に判別可能です」
片山の呼びかけに、剣は元気良く答えた。
「みんなありがとう。この度の航海は、そのステラー海牛を探すことが目的だった。
しかし私は自分で計画しておきながら、海牛を発見できる可能性は皆無に近いことを承知していた。
あるいはこの船を建造したことも、この航海に費やした費用も、
全てが無駄となってしまうことも承知していた。
それでも私は、この計画を中止する気にはなれなかった。
何故だろうか、それは私にも分からない」
「昨日の朝、岬を眺めていた私は迷っていた。
海岸線に沿って探索を続けるか、それとも計画を中止して帰途につくか、だ。
真っ直ぐに南下することは、全く考えていなかったのだ。
ところが私は真っ直ぐ南下するよう指示してしまった。
何故そんなことを口にしたのか、それは私にも分からない。
だれかが私の体を使ってしゃべらせた、そんな気がしてならないんだ。
馬鹿げた話だと思うかもしれないが」
「いえ、私は信じていますよ」
「そうとも、わしだって信じとる」
片山に続いて赤石も同意した。洋も荒川も、他の乗組員も同じ気持ちだった。
「幸いにも、私たちはステラー海牛に出会うことができた。
まさに奇跡的な出来事であったが、これは私たちの努力でも幸運でもなく、
ステラー海牛自身に導かれたのだと思っている。
だから私はこのことを公表する気は全くない。
勿論公表したところで、信じない人間の方が多いだろう。
それでも公表すれば全世界のマスコミが立ち所に殺到し、
この海域は無数の船舶と航空機で埋め尽くされることになるだろう。
あるいはグルメと称する輩が食肉を求め、大金をばらまいて密漁者をけしかけることだろう。
ステラー海牛の存在を公表することは、彼らに死刑の宣告をするようなものだ。
だから私は、どうしても公表する気にはなれないのだ。
そんな訳だから、写真は撮れなくてもいいんだよ、船長。
私にとっては、ステラー海牛に会えたと言う事実が存在すれば、
今度の航海は大成功だと言えるんだ。諸君には本当に感謝しているよ」
「はあ、恐れ入ります」
荒川も心なしほっとした表情である。
「録音テープはどうしましょう」
片山が尋ねた。
「それも含めてだが、私は今回のことは永久に公表しない。
だが私の考えを、諸君にも押し付ける気はない。
諸君もそれぞれの役目を果たしてここまできた。そしてステラー海牛を目撃したのだ。
だから誰にでも公表する権利はあり、それを止める権限は私にはない。
諸君の誰でもが、このことを公表すれば有名人となり、大金を得られる可能性もあるだろう。
私としては私の意見に同意して欲しい気持ちなのだが、これはあくまでも各人の問題であり、
どのように行動するかは諸君の自由なのだ」
一気に話し終えた伯父は、幾分か緊張しているようだった。
「みんな塩見さんと同じ考えですよ」
少し間をおいてから赤石が口を開き、全員が黙ってうなずいた。
「みんな、ありがとう」
伯父は礼を言うと、向きを変えて海に目をやった。
「船長、霧が晴れてきたよ」
我に帰った荒川は、張り切って号令を下した。
「速力15ノット、釧路に帰るぞ」
当直員は各人の持ち場につき、帰路についた四万十はぐんぐん速力を上げていった。
「塩見さん、私たちの勝負はまだまだですぞ」
赤石に誘われ、伯父は船内に降りていったが、
その後ろ姿はいつもの陽気な塩見に戻っていた。
洋は片山と共にウイングに出て、心地よい風を受けていた。
霧の中での出来事はまるで夢のようであったが、
霧は消えても洋の心から消え去ることはないだろう。
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海図
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