海洋調査船「四万十」
春休みも終わりに近付いた頃、洋は伯父に招かれて清水にやってきた。
伯父が発注した海洋調査船の進水式があり、学校も休みなので見学に来たのだ。
春休みが明ければ中学3年になるのだが、洋は受験のことには全く無頓着な人間であった。
伯父は発明家でもあり、冒険家でもあった。
数々の発明による特許料収入で莫大な財産を有していたが、
その全財産をつぎ込んでこの船を発注したのだ。
間もなく60歳になるが独身であり、財産を残す気は全く無いのだ。
「うわあ、凄いなあ」
初めてその船を目にしたとき、洋は思わず歓声を上げてしまったが、
同時に『変な船だなあ』と思ったことも事実である。
その船は今までに見たこともない、奇妙な形をしていたのだ。
「ふふっ、驚いたかね」
伯父と一緒にやってきて声をかけたのは、設計主任の片山だった。
「これって、双胴船ですか?」
洋は恐る恐る尋ねた。
「そうだよ。でも見ての通り、普通の双胴船とはちょっと違っているけどね」
その奇妙な船の下には2本の大きな魚雷があり、
上部には大きなソリのような船体が乗っていた。
両者は薄い流線形の構造物でつながっている。
「どうしてこんな格好をしているんですか」
洋は素直に疑問をぶつけた。
「この形式は半没水型と言う船型なんだが、
一般的な双胴船に比べて、大きな利点が2つある。
造波抵抗と船体の横揺れを減らすことができるんだよ」
この船は片山の自信作のようで、質問されるのが嬉しいような顔をして答えている。
しかし洋には船に関する専門的な知識はなく、片山の説明を理解できなかった。
「造波抵抗って何ですか?」
「高速で走っている船の船首や船尾に、
真っ白な波が発生しているのを見たことがあるだろ」
「ええ、格好いいですね」
「そうだね。でも船にとっては困り者なんだよ」
「どうしてですか」
「あの波を作るために、大きなエネルギーを消費してしまうんだ。
だからエンジンの馬力を大きくしても、それ程スピードは上がらないのさ」
「ふーん、じゃあ波は出来ない方がいいの」
洋は単純に考えてそう言ったのだが、
片山はそれを待っていたかのように声を高めて答えた。
「その通り!そうして出来たのがこの船さ」
片山は船を指差し、自信満々に話を進めていく。
「水面上に出ているのは白い部分、赤い所は海中にある部分だ。
水面を貫いている箇所の断面積が小さいので、高速時でも波の発生は少ないんだ」
「ふーん、でも本当にこれで浮かぶんですか」
「もちろん浮かぶさ。船体を支えるための浮力は、下の丸い部分で確保しているからね。
波による船の横揺れも、この構造で滅らすことが出来るんだよ」
「変な格好してるけど、凄い船なんですね」
洋はすっかり感心してしまったが、後ろにいる伯父には不満もあるようだった。
「その代わり、大きな欠点もあるんだぞ」
「えーっ、大きな欠点?」
洋は振り向いて伯父を見ながら叫んだ。
しかし片山は、半分笑いながら伯父に向かって言った。
「塩見さん、あんまりいじめないで下さいよ。その点は了解済みじゃあないですか」
「しかし欠点は欠点ですからな」
伯父は強い口調で言ってはいるが、□とは裏腹に目は笑っていた。
しかし洋にはどういうことなのかさっぱり分からなかった。
「欠点ってなんですか」
洋の質問に対して伯父は笑ったまま答えず、代わりに片山が苦笑いしながら答えた。
「実はね、欠点と言うのは建造費のことなんだ。
この程度の大きさの船としては、かなり高くなってしまうんだよ」
「変な格好をしているからですか」
「そう言って良いだろうね。船体構造にしても推進システムにしても、
一般の船に比べて複雑になってしまうからね。どうしても建造費は増えてしまうんだ」
船の性能には自信を持っていた片山も、建造費に関しては自慢できないようであった。
「でも塩見さんはこの船が好きなんでしょ」
伯父の後ろから声をかけたのは、ドック長だった。
ドック長と言うのは、船を乾ドックに入れたり、海上試験を行う時の責任者である。
「いやあ、ドック長に言われると弱いなあ」
伯父は照れながら振り向くと、両手の人差指でドック長を指差し、
軽くステップを踏みながら言った。
「何とおっしゃるドック長、そういうあなたも大ファンね」
伯父はもう還暦に近い年令ではあるが、その精神は青年期、いや少年期のままなのである。
社会の慣習に縛られることもなく、世間体を気にするようなことは全然なかった。
公務員である洋の父とは対照的な人間であり、
洋は自分の心に正直に生きている伯父が好きだった。
「塩見さんにはかないませんなあ。
それより進水式の準備をしなければなりませんので、あちらまで下がって頂けませんか」
ドック長に促されて、3人は作業の邪魔にならないように場所を移した。
船首には薬玉が取り付けられ、地上の式台には紅白の幕が張られていった。
「船の名前は何と言うんですか?」
洋は気になっていた船名のことを尋ねた。
「四万十だよ」
「四万十?」
「四国にある川だ」
「それは僕も知っていますが、どうして四万十に決めたんですか」
「あの川には思い出があってな。
また機会があったら話してやるが、この船のイメージにぴったりなんだ」
冗談好きの伯父が、いつになく真面目な顔で答えた。
「間もなく式が始まりますので、御席にどうぞ」
小柄な工場長がやってきて、伯父を式台に案内した。
洋もその後に付いて行ったが、進水式にしては何かおかしいなと感じていた。
薬玉の割れた船は海に向かって滑り下りるはずなのに、
四万十の後ろには海が見えないのである。
「本船を『四万十』と命名します」
斧を振り下ろし、支綱を切断したのは従姉の奈美である。
洋より2学年上の高校生なのだが、やはり春休みなので伯父に招かれていたのだ。
洋が心配していたように、船に当たったシャンペンが割れ、
薬玉が割れても船は一向に滑り出す気配はなかった。
「洋くん、がっかりしたかね」
片山の声である。
「片山さん、今日は進水式なんでしょ」
「もちろんそうだよ。でも進水式と言うよりは、着水式と言うべきかもしれないね」
「着水式?」
「ほら、あれを見てごらん」
片山の言うままに船の方を見ると、大きなクレーンが四万十を吊り上げていた。
「ああやって海の上まで運び、静かに着水させるんだ。
この方が安全で仕事もやり易いから、小さな船はみんなこうしているんだよ」
片山の説明を聞いて洋もなるほどと思ったが、
やはり紙テープをなびかせて滑って行く四万十の姿を見たい、
と言う気持ちは消し去れなかった。
「私も滑っていく姿を見たかったな」
斧を抱えた奈美が、伯父と共にやってきた。
奈美も洋と同じように進水式は初めてなので、
滑り下りる四万十の勇姿を思い浮かべていたのである。
「伯父さんが進水式に招待するって言うから、楽しみにしていたのに。
何だかおもちゃみたいな船なのね」
「はっはっは、おもちゃの船か、こりゃあいい」
伯父はクレーンに吊られた四万十を見上げ、大きく笑いながら言った。
洋も奈美の言葉を聞いているうちに、言われてみればプラモデルみたいな船だ、
本当に凄い船なんだろうか、と思うようになってきた。
そんな洋の心を見透かすように、片山が言葉をかけた。
「船は水に浮かんでから本領を発揮するのさ。ついでに船内を見学して行くかい」
短いけれども片山の言葉には説得力があった。
洋は再び好奇心が高まり、力強く返事をした。
「はい!お願いします」
「そちらのお嬢さんも如何ですか」
片山は奈美にも声をかけた。
「う一ん、どうしようかな」
奈美は迷っていたが、そんな奈美に伯父が言った。
「奈美はわしが案内してやろう」
「塩見さん、それは困ります。すぐに記念パーティーが始まりますから」
伯父を押し止めたのは工場長だった。
「わしはパーティーなんてものは、大嫌いなんだ」
「そんなこと言わないで下さいよお。
船主さんがいなくてはパーティーが始まりませんからね。
それにお嬢さん、工事中の船内はとても狭いし汚れていますから、
素敵なドレスが台なしになってしまいますよ」
奈美はこの日のために、純白のワンピースを新調していたのだ。
「そうですね、それではお嬢さんは次の機会にして頂きましょうか。
では洋くん、私たちは四万十に行こうか」
いよいよ四万十の船内に入れるのだ。
洋はわくわくしながら、片山と一緒に艤装岸壁に向かった。
海面に下ろされた四万十は吊っていたワイヤーを外され、
その後の工事を行うための艤装岸壁への係留作業を行っていた。
「どうだい、海に浮かんだ姿は」
「なんだか不思議な感じですね。船が空中に浮かんでいるようで」
不思議な船、これが海に浮かんだ四万十に対する洋の第一印象だった。
「知らない人が見たら、どうして浮かんでいるのか不思議がると思いますよ」
「ふふっ、そうかもしれないね。でもね洋くん、
この形式の船はもう何隻も実用化されているんだよ」
「えーっ、本当ですかあ」
実際にこの形式の船が就航しているのであれば、船が好きな洋は目撃している可能性もある。
洋は懸命に思い出そうとしたのだが、どうしても思い出すことは出来なかった。
「うーん、僕は見た記憶がないと思いますよ」
「そうかもしれないね。まだ絶対的な数が少ないし、
気が付かずに乗ってしまう人の方が多いだろうからね」
洋は斜め前から四万十の姿を見ていた。
確かに前後方向から見れば、船体中央が空洞になった特殊な船型が良く分かる。
しかし横から見れば普通の船とそうは変らないから、
その違いに大抵の人は気が付かないのかもしれない。
「でも、どんな船に使われているんですか」
「この形式の欠点は、喫水が増えても浮力はそれほど増加しないことなんだ。
だから荷物を沢山積む船には向いていない。
四万十のような調査船か、あるいは旅客船が一番適していると言って良いだろうね」
片山の話は少し専門的になってきたので、洋には全てを理解することは出来なかった。
2人がそんな話をしている間にも係留作業は進み、
岸壁に繋がれた四万十には道板が渡されて乗船可能となった。
「片山さん、喫水もトリムも計算通りですよ」
小舟で四万十の周りを調べていたドック長が声をかけてきた。
「船内には入れますか」
「間もなく陸電を接続しますから、それからの方が良いと思いますよ」
四万十も発電機は持っているが、まだ動かすことが出来ないのでエ場から竃気をもらうのだ。
それに船は就航してからも、岸壁にいる時には陸上の電源を利用することが多い。
その方が経費も安くなり、燃料を節約できるからだ。
「上甲板から案内しましょうか」
小舟から上がってきたドック長の先導で、洋は四万十に足を踏み入れた。
操舵室やマストは中央にあり、上甲板は広々としていた。
「思ったより広いんですね」
「上甲板が広いのは、双胴船の強みだね」
船尾両舷には、非対称な構造物と煙突があった。
「右舷にディーゼル機関、左舷にガスタービン機関があって、各々発電機を回している。
この船は電気推進方式の採用で、複雑な半没水型の欠点をカバーしているんだ」
片山は自信を持って説明した。
「陸電がつながりましたよ」
ドック長はそう言って船内の照明を点けた。いよいよ船内に入れるのだ。
「片山くん、こんな所にいたのかい。早くパーティー会場に来てくれよ、
私らでは技術的な説明は出来ないからね。ドック長もお願いしますよ」
息を切らせながらやって来たのは、建造主任の空木である。
造船所としても初めて建造する船なので、参列者からの質問が絶えなかったのだ。
「片山さん、早く行きなさいよ。
私はドック長として船内の確認をしなけれぱならないから、
ちょっと行けそうも無い。残念だなあ」
ドック長は片山をけしかけたが、実はドック長もパーティーは大の苦手なのである。
しかし片山もパーティーは嫌いな方だし、設計というデスクワークをやってはいるが、
現場の雰囲気が大好きだったのだ。
「私も洋くんに船内を案内してやってくれと、塩見さんに頼まれたものですから。
時間もあまりないし・・・」
そんな約束は無かったけれど、洋は黙っていた。
洋も大人たちのパーティーより、四万十の方に興昧があったからだ。
「船体関係は宝剣くんに、機関関係は島田くんに頼んでおきましたから。
彼らに任せておけば大丈夫ですよ」
「そうかい。それなら仕方ないなあ。
でも船内に入るんだったら、洋くんも安全靴と安全帽は着用してくれよ」
空木は四万十の建造主任であると共に、造船所の安全指導員も兼ねていたのだ。
「あっ、申し訳ありません。すぐに取ってきます」
片山も最初から洋を案内する予定では無かったし、進水式が終わってから直ぐに来たので、
洋の安全帽を用意するところまでは手が回らなかったのだ。
「いや、だれかに届けさせるから、君たちはここにいていいよ。
洋くんは上着はMでいいね、靴は何センチだい」
「25センチです」
「案外小さいんだね。すぐに持ってくるからね」
空木はパーティー会場に戻ろうとしたが、歩きだす前にドック長が声をかけた。
手を口に当て、何かを食べる仕草をしながらである。
「空木さん、ついでにこれも・・・」
「ドック長には負けるなあ。内緒ですよ」
空木は苦笑いしながら去っていった。
洋には何のことだか分からなかったが、
2人は長い付き合いなので、お互いに気心が知れているのである。
洋も安全靴と安全帽で身支度を整えると、3人は勇んで船内に入っていった。
最初に向かったのは船橋である。
「さあ腹ごしらえだ。本当はこんな所で食べちゃあいけないんだが、今日は特別さ。
ここなら外から見えないから安心だよ」
ドック長は外から見えないよう床に座り込み、空木の持ってきた食物を広げた。
どうやらドック長は、進水式の時はいつもこうしているようだったが、
片山もドック長のこの儀式に付き合うのは、今回が初めてである。
「ドック長には頭が下がりますよ。遠慮なく頂きます」
洋も一緒に食べながら、片山に質問を始めた。
「船内は普通の船と同じなんですね」
「全体の配置は違うけれど、船として必要な設備は変わらないからね。
特徴的な船体構造に関しては、図面で説明した方が分かりやすいかもしれないな」
「中からは見えないんですか」
「部分的には見えるけれど、全体の構造を把握するのは無理だと思うよ」
「エンジンはどうして上にあるんですか」
「下の魚雷部分だと、整備に必要なスペースが取れないんだ。
しかし上に置くと今度は動力の伝達が難しい。
電気推進方式はその点便利なんだよ」
「スクリューが無かったけど、ウオータージェット推進なのですか」
「そうだとも、秘密兵器のバブルジェットだ!」
大きな声で答えたのは、ドック長である。バブルジェット!
初めて聞くその言葉は、洋の心に鋭く突き刺さった。
バブルジェット!名前の通りなら、泡を噴射するジェットエンジンのはずである。
しかし泡を噴射するだけで、果たして船は進むことが出来るのだろうか。
「バブルジェットって、泡で進むんですか」
「間違いではないが、少し違うね。基本的にはウオータージェットだから水を噴射するんだ。
でもその中に気泡を混ぜて推進力を高めるのが、バブルジェットの特徴なんだ」
「どうしてそうなるんですか」
洋には片山の説明が理解できなかったが、片山も洋への説明はやりにくいようだった。
しかし理論的に説明しようと思って難しい数式を持ち出しても、
中学生の洋に分かるはずはない。
「全くだ。実は私も理屈は分からないんだ」
洋と同様に、ドック長もバブルジェットの仕組みは理解出来ていなかったのだ。
「でも難しいことはどうだっていいのさ。
海の上で思い切りスピードを出せれば、私はそれで満足さ」
ドック長は深くは追究しなかったが、洋には別の疑問もあった。
「気泡はどうやって混ぜるんですか」
「洋くんはジェットポンプを知ってるかい」
「えっ?ジェット機のポンプですか」
「ふふっ、ジェット機は関係ないよ。
ノズルから高速の流体を噴出して、真空状態を作るポンプのことだよ」
「そんなポンプがあるんですか」
洋にとって、ジェットポンプは全くの初耳であったが、
ドック長にとっても初めて聞く言葉のようだった。
「それって、エダクターのことかい」
「ええ、ポンプの種類としては、ジェットポンプと言うんですよ」
「ふーん。エダクターなら船では珍しくもないが、陸上で使うことは無いだろうなあ」
「どうしてですか」
洋はエダクターについても質問した。
「エダクターは消火管の水を利用しているので、船ではとても便利なんだ。
でも陸上の場合には駆動水を得るために、別のポンプが必要になるからね」
「それに大量の水を必要とするからな。海の上なら問題ないが、
陸上では使いにくいかもしれないな」
ドック長もエダクターについては詳しかった。
「性能はいいんですか」
「ポンプとしての効率は良くはないが、故障が少ないのが長所だね。
ゴミなんかを吸い込んでも平気なんだよ」
洋も納得したので、片山は本来の話に戻した。
「本題に戻るが、バブルジェットは推進用の水流を利用して空気を吸い込み、
気泡を含んだジェット水流として噴出するんだよ」
「そんなに上手くいくんですか」
「勿論最初から上手くはいかないさ。色々な模型を作って実験を繰り返し、
最良の形状を決めたんだ。場合によっては動力で空気を吹き込むこともあるんだよ」
バブルジェットは、片山が苦労して作り上げた推進システムだったのである。
「これから色々と艤装工事を行い、海上運転は7月上旬を予定している。
夏休み前だし日曜日では無いけれど、洋くんは来られるかい」
「うーん、どうしようかなあ」
勿論洋は来たかったのであるが、両親の許可が下りるとは思えなかった。
そんな洋の心の中を見透かして、ドック長がおどけるように言った。
「学校よりずっと面白いぞ」
「ドック長!洋君をそそのかさないで下さいよ」
片山はドック長の発言を和らげようとしたが、洋の決断は早かった。
「はい!絶対に来ます!」
7月上旬では、学校はまだ夏休み前である。
でも洋は、何としてでもバプルジェットの運転を見たいと思ったのである。
前へ
次へ
海図
目次
花畑トップへ